故郷をとおくはなれて
40代のテーマは、「どこに住むか」。
初めて一人暮らしをしてから、約20年。首都圏の中で引越しを繰り返すこと8ヶ所目。
そろそろ定住する場所をみつけたい、と思い始めた。
去年、引越しをしたが、ココも仮の住処と思っている。
アパートって、なんか次のステップのための場所、のような感じがするのだ。
からだを扱う仕事を始めて、からだだけでなく、食べ物とか、場の心地よさなどにも意識が向くようになった。
なにが心地よいか、どこがエネルギーをうまく回していくのにいい場所か。
「どこでもいいよ」と言えなくなってきた。
もちろん、選びようもなく住まなくてはならない場所もでてくるかもしれない。
しかし、自分に必要な場所、自分が必要とされる場所にできれば住みたい、と思う。
住人となるということは、その土地の社会にも関わることだ。
どんな人間関係を築いていきたいか、そんなことも問われている気がする。
いまのところどうなることやら皆目検討がつかないが、この10年でひとつづつ探っていってみようと思う。
それでも故郷には帰らないんじゃないかなあ…。
語らない
12月初旬に心理学関係の研修会に行ってきた。
参加者の中からクライアントを選び、どのようにセラピーが進められていくのかというのを実際のワークを通して感じ、学んでいくというもの。
その中で約束が3つあるとのこと。
まず、1.個人的な問題を扱うため、ここでのことは人に話してはいけない。
2.クライアントは3日間はこのワークの内容について話したり書いたりしてはいけない。
3.ワーク終了後、他の参加者はクライアントに対してコメントや助言をしてはいけない。
ということ。
1は、もちろんプライバシーの問題があるから納得するが、2・3は、ちょっと面白い視点だな、と思った。
なにか予測がつかないことが起こったとき、私たちは「どういうことなのだろうか」と考え、言葉にしたり、人としゃべっているうちに何かが整理されていったりすることが多いように思う。
しかし、それをしないでくれという。
なぜかというと、言葉にするということは、発散してしまうということなのだそうだ。
からだで感じたことをからだが理解するまでには時間がかかる。言葉にするとその過程を阻害してしまうのだ。言葉にするとついわかった気になってしまう。そうではなく、「腑に落ちる」ところまでからだで感じさせることが必要だという。
こころの問題を扱うとき、人は自分の理解し得ない無意識の領域まで動かされる。
それは言葉以前の領域かもしれない。
「その人の再生を信じて、そっとしておいてください。」
と先生はおっしゃっていた。
今回の会場は地下の大広間。
それを聞いて、まさに再生の儀式をするのにふさわしいような場所に思えてきた。
言葉では語れないこと、また、すぐには語らないこと。
一呼吸おいて、その出来事を味わう時間をもとう、と思った。
水と暮らす
三島大社にいく途中の町中に、あんなにきれいな水が流れているとは!
富士山の爆発で流れた溶岩でろ過されてきれいな水ができるのでしょうか。
写真は、三島のお隣り、清水町の柿田川公園の湧水です。
ショッピングセンターが近くにあり、平地の大きな道路の脇に、ふつふつと湧き出ています。
この川が駿河湾に流れ、名物の桜海老の成育に大きな役割をしているそうです。
身近に水源があって、水の豊かさを感じられるというのはいいなあ。
食べ物や水がどこからやってくるのか実感できるって大事なことだと思うのです。
それと、口にしたものの味がつながるってちゃんと身に入るということなのだと思うのです。
汲んだ水や、売店で食べたお豆腐のアイス、おいしかったなあ。
エコロジーチェック
最近、勉強しているNLP(「神経言語プログラミング」 簡単にいってしまうとコミュニケ-ションスキルをあげる手法)の講習会の中で、「エコロジーチェック」という言葉に出会いました。
エコロジーというと、自然などの環境問題が思い浮かびますが、ここでいうエコロジーとは周囲の人々とのこと。
例えば、なにかやりたいときに、自分のやりたいことをやってもうまくいかないことがある。
そのときは、周りにどんな影響を与えているか、周囲はどんな反応をしているか、チェックしてみよう、ということなのです。
周りも「いいね!」と思わないとなかなか物事は実現しにくいようです。
もちろん「周囲の反対を押し切って」ということもあるかもしれません。
その場合は、最終的にいい結果がでて周囲も納得すればOK。
自然との環境だけでなく、人との関係にも気を配ることは、当たり前だけど大切なこと。
でも、なかなかできていないんだよなあ。
ついつい自分の思いが先走り、「あっ!」と思うことも多いこの頃です。
副都心線とナンシー関
14日に開通したばかりの副都心線に乗ってきました!
やー、新しい路線はワクワクしますね。
行きはJRを使ったのですが、渋谷のホームが空いていて快適。
地下鉄利用者とに人の流れが分散されたようです。
西早稲田から渋谷に出て、本日(15日)最終日の「ナンシー関 大ハンコ展」(パルコファクトリー)を見てきました。
ちょうど混雑の激しいときに行ってしまったらしく、ぎゅうぎゅうでしたが、沢山の原画(消しゴムハンコ)などをみて、改めてスゴイ!と思いました。
リアルなのにユーモアがあって、くすっと笑ってしまうのです。
そういえば、コラムもよく読んでいたなあ!
あの観察力は、やっぱりすごいし、愛がありますね。
妖精とマンモス
何週間か前に、テレビで映画「ライラの冒険」の紹介をしていたコーナーで、「妖精とマンモスとどっちに会いたいか?」という質問を出演者にしていた。(多分、この映画の内容からそういう流れになったみたい…。)
女性陣は全員「妖精」!(たしか!)
ええー??私はマンモスのが会いたいぞ。
翌日、友達(女性)にも聞いてみた。
やっぱり「妖精」、だそうだ。
うーん、私としては妖精はスグ会えそうだが、マンモスは絶滅してしまったから過去に行かなければ会えない。まあ、それってかなり確率は低い、というか会えない前提。
それが会えるのならスゴイことだ!と思うのだけど。
妖精がスグ会えそう、っていうのもなかなか奇妙と思われるかもしれないが、妖精は普段見えないだけで実は近くにいる、と考えるととても身近で「現在」に所属するものと思えませんか?何かの拍子で見えそうだから機会があれば、見られるかもと思っている。
マンモスはなんでそんなに惹かれてしまうんだろう、と思っていたらヒントは本にあった。
『イニュニック[生命]』(星野道夫 新潮文庫)を久々に読み返しているなかに(最近、手持ちの本を読み直すのが自分のなかで流行っている)、最後の氷河期に絶滅した種を、ひとつだけ取り戻すことができたら、どんな動物がいいか、という問いに星野さんは「マンモスだな」と答えていた。
「ブルックス山脈の夜の谷は、タイムトンネルをくぐりぬけるのに苦労はいらなかった。今が一万年前だと思えば、私たちはそのまま沖積世の風景の中にいた。」(『イニュニック』より)
時間を行き来するのは難しい。
懐かしい風景や古いものは、時間の流れの感じ方を変えてしまうことがある。
今・未来も大事だけれど、過去があっての今と未来だ。
古いものに惹かれるのはなぜだかわからないけれど、古いものが「今」と交差する瞬間にドキドキすることがたびたびあるのだ。
冷めていくときに
「煮物は冷めていくときに味がしみるのよ」
と某CMでやっていた。
まあCMでやってなくても、知っている人は知っているし、翌日のカレーやおでんがおいしいのもそのためだ。
なのだけど、ついつい日々料理をするときは煮込むものでもすぐ食べてしまう。
正月に読んでいたく感銘をうけた外山滋比古さんの『思考の整理学』(ちくま文庫)という本のなかでも、「見つめるナベは煮えない」という外国のことわざをだしてエッセイをかかれていた。
うーむ、耳が痛い。
ワタシもどちらかといえば(というか、たまに、やけに)、様子が気になって「みつめて」しまい、なかなか煮えないコトが気になってしかたなくなったりする。(煮物にかぎらず)
話はちょっと飛ぶが、ドライヤーで髪を乾かすときもそうだ。
大体途中で切り上げてしまうので、乾ききっていないときに寝てしまい、翌朝寝ぐせで大変な思いをすることが多い。
引越しにあたって、新しいドライヤーに買い換えたので、
「冷めていくときが大事」
と思って丁寧にドライヤーをかけるようになった。
よく考えれば、ボンドで接着するときも、ちょっと表面が乾いてきたかなー、というときにしっかり押さえたほうがうまくいくし、そのときにいじってしまうとゆがんでくっついたりする。
冷める・乾く直前ていうのは大事なんだなー。
からだも湯冷めすると風邪をひくし。
ひょっとしたら人間関係もそうなのかも…、と思いつつこれはまだ検証しておらず。
違ってみえる
引越して1ヶ月、咲き始めて「あー、ここにこの木があったのかー」と気づくことも多い。
桜の前には、木蓮とか木瓜とか。花の色というのは景色の印象を変える。
朝練のために通っている公園も桜のトンネルが出来ていた。
枝ばかりのときと違って、あまりにも木が生き生きとしているのでなんだかちょっとびっくりだ。
写真は、バイト先の近くの川沿いの道。
こないだ行ったときは咲いてなかったのに、いきなり華やかになっていた。
春休みということもあって、散歩する人や子連れでお弁当を広げる人たちが多く見られた。
いつもはこの川べりでお弁当を広げると鳩が終結してくるのだが、行楽シーズンの人手には鳩も少しは遠慮する(というかどこへ行こうか迷う)のかもしれない。
朝練
引越しをするちょっと前から、少し早起きをして近くの公園に行き、太極拳の練習をするようになった。(といっても出来る範囲で。)
もともと早起きは苦手だ。
中学校のときに既に朝練がイヤで運動部に入らなかったくらいだ。
でも最近になって、少し早く起きて朝の時間を有効に使いたいと思い始めた。自分としては夜より朝(午前)のがシゴトがはかどる。だけど、起きてエンジンがかかるまでに時間がかかる。
ならば、エンジンをかけるためになにかしようではないか。
ちょうど通っている太極拳の練習も遅れをとっているので、自主練習をしなくてはと思っていたところだったし。
7時ちょっと前に起きて、身支度をし、歩いて公園へ。
引越す前は、徒歩15分のところの市民の森まで行っていたが、今は歩いて10分の公園か20分のところの大きい公園のどちらかに行っている。
小さい公園はこじんまりしていていいし、大きい公園はジョギングする人や犬の散歩の人、社交ダンスを練習している人などいろんな人がいてにぎやかだ。
時間と気分により行く公園を変えている。
しかし決め手は、道中の景色や公園の木の感じだったりする。
あの町並み、あそこのウメノキを見たいとか、今日はあの木の前で練習したいとか。
陳式太極拳の老架2路を1回通し、最近教わっているものの復習を3回することにしている。
いつまで続くやらわからないが、気負わずやっていきたい。
朝きちんと起きるようになって、ゴミ出しにあわてなくなったというのもよい。
その代わり、夜は早く眠くなるので、今も結構朦朧としている。
共に食べる
昨日の日曜は、筋・筋膜療法の新年会(主に学校のクラスの)がありました。
先生や日頃共に勉強している仲間、またそれぞれに活躍している方々などが集まり、和やかな時間を過ごしました。
筋・筋膜療法は、「からだをどうやってみていくか」に焦点を置いているので、集まる人たちもある意味こだわりがある人ばかり。
仕事に関する情報だけでなく、いろんな話題が出てなかなか面白いです。
どんなことをするのもそうですが、いい師や仲間に出会えるのは大事なことだと思います。
仕事柄、あまり同業者と集まって「飲む」とかいう機会がないので、こういう会はとても貴重です。
食べて、飲んで、喋って。
それが元気の素になります。
「同じ釜の飯を食う」ではないですが、やはり食事を共にするってのは、大事なことだよなあと思うのです。
テルミン、その後
1月に入ってようやく組み立てました。
まだ、慣れていないのでチューニングがやっかいですが、なかなか楽しいです。
「ヴーーーー」と唸ってます。
この写真では見えませんが、右奥の黒い端子から針金状のアンテナがあり、そこの近辺で手を動かしたり離したりすると、音程が変わります。
最近は「チューリップ」が弾ける(?)ようになりましたが、微妙な手の動きですぐ狂ってしまうので、「うーん、音ってやっぱり連続してるんだなあー」と実感してます。
大体の楽器って、この音程はこの位置を叩くとか押さえるとかはっきり決まっているので。
色々手を加えるとまた音のバリエーションが増えるそうなので、ぼちぼちやってみたいと思ってます。
2008年へ
昨日のテルミン、組み立てようとしたら電池がなかったので、音色は来年におあずけです。
さて、2007年も今日1日となりました。
みなさんにとってはどんな1年でしたか?
私の今年のテーマは、「ためこまない」。
でしたが、これが意外と難しかった。
本もいろいろ買ってしまったし、来年の引越し(予定)に向けて整理をしようにも、荷物の多さに思考停止。
しかも、体重もなんだか増えている!
ぜんぜんできてない…。
このテーマは来年も持ち越しにしたいです。
そして来年の新たなテーマは「楽しむ そして、前進する」にしようと思います。
今年は、いろいろと動きはあったものの、足踏みをしているような1年でもどかしいことも
多くありました。
楽しむ余裕もなかった気がします。
来年は、楽しみながらコツコツと、そして前進する1年でありたい、そうしようと願ってます。
来年もどうぞよろしくお願いいたします。
みなさまにとって、よい年越しを迎えられますようお祈りいたします。
シゴト・シゴト・アソビ
今月はめずらしく、仕事も勉強もお出かけもいろいろスケジュールの詰まった1ヶ月でありました。
ここ1、2年は、勉強と仕事のベースをつくるため、シュミを封印していたところもありましたが、そろそろここらを少し開放しないとちっちゃくなりそうだなあということで、ちょこちょこ出歩いたりし始めました。
とはいえ、もちろん仕事中心なので、時間とココロの余裕があるときに、なんですが。
そーすると、「あー、こんなことをやりたいと思ってたなあ」とか「そうだ、これに興味があったんだ」と思い出したりして、なかなかいいです。楽しいし、リフレッシュするし、原点にも戻れます。
やっぱり、たまにはアソビも大事だ!
26日に、ほぼ日の「はじめてのJAZZ2」を見に行って、「あー、40代になったらJAZZを気軽に聞きにいける大人になりたい!」とひらめきました。
シゴトもアソビもめざすところがあると、より一層楽しめるかもしれません。
心配するより…
昨日、知り合いが、「ついつい、他人のことを心配しちゃうのよねー。」と言っていた。
それを聞いて、そういえば、自分も周りの人に色々心配かけていた(いる)かもしれないなー、と思った。
しかし、心配されてもどうにもできないこともあるし、当たっていることについて心配されると、「あ、やっぱりこれってダメなのかなあ??」と不安になることもある。
心配される立場としては、「どうせ気にかけてくれるなら、心配するより応援してほしい」と思ったりする。
自分が他人のことについて、気にかける場合は、やっぱりそういう風でありたいかな。「心配」より「応援」の方がプラス思考って感じがしませんか?
悩む・迷う・考える
最近、ちょっと「迷っている」ことが多い気がする。
どうしようかな、どっちにしようかな、いつにしようかな、と思う。
まあ、大体そういう時というのは、自分にとってヒマというか、時間が余っている時だ。
冷静に考えると、もう少し後で決めたり行動したりしようと思っていることを、ヒマだとすぐ思い起こしてしまう。また、こっちにしようとほぼ決めているのに、別の方向性を考えてぐちゃぐちゃになったり。
そうなるとロクなことがないので、できるだけ早く、単純でも「今できる」ものに没頭してしまったほうがいい。料理でも、掃除でも、洗濯でも。モクモクと作業をこなすと頭の中も片付いてくる。
あちこち迷うことはあるけれど、「悩む」ことはあまりない(と思っている)。
「迷う」とはとにかく行き先が決まっているが、「悩む」は行き先すら決まっていないような印象がある。自分の場合、大体行きたい方向はあるけど、途中で「あれ?」となるので、迷ってしまうことがあるのだ。
敬愛なる知人によると、「悩まず、考えよ」ということらしい。
悩んだら、どこに行きたいのか(何をしたいのか)考える。
じゃあ、迷ったら?
冷静に考え、判断することも大事だが、時間を置くことも大事なように思う。
「迷う」ということは、時期じゃないということでもある。
「保留」というのも判断のひとつだ。
あとは、迷い道の整備だ。
どこが迷ったのかがわかれば、次はそこで迷わないように整備しておく。
頭の中も、部屋もちらかっているとイカンですね。
名前をよぶ
固有名詞を覚えるのが苦手である。
植物の名前、人の名前、曲の名前などなど…。
子供の頃から名前だけはなかなか覚えられなかったので、年のせいではあるまい。
しかし、人と接する仕事ゆえ、そうも言っていられないので最近はいくらか人の名前は定着するようになってきた(と思う)。
人に限らず、名前を知ると、その人なりモノなりの輪郭がはっきりするような気がする。
名前とは、ある意味をもって授けられるからだ。
最近、仕事をする上で再び、筋肉の名前や位置・働きなどをもういちど確認しようかと思っている。慣れてくると「ここらへんに…」ということで済ましてしまいがちになるのだが、もう一度確認して、声に出さずとも、名を呼ぶと、その筋肉がはっきりとイメージされる気がする。
それを繰り返すと、もっと体の輪郭がはっきりしてくるのではないかと思う。
暦のことば
ご無沙汰しています。
毎日暑いですね。
先日、新聞で「立秋を過ぎてもまだ暑い日が…」という記事を読んで、立秋を過ぎたことに気づきました。我が家のカレンダーは旧暦表示つきですが、最近の暑さに負け、というか、若干、「夏休みモード」に入っているせいか、あまりカレンダーをチェックしていなかったのでした。
ちなみに、立秋は旧暦6月26日、新暦でいうと8月8日。この時期に暑さがピークになるということですが、旧暦で6月下旬にもう「秋の気配」がやってきてしまうのには驚きです。
そういえば、昨日・今日と日中は暑いながらも、モクモクと湧く雲の様子や夜の風など、少し真夏の様子と違ってきたような気がします。
いつもなら、お盆が明けてから、空の高さに秋を感じるのですが、今年はどうやら季節が早く進んでいるのでしょうか。
こごみ堂は、明日15日から18日までお休み。
実家に帰ったり、盛岡へ旅行に行ったりと、横浜と違う景色を見て、リフレッシュして来たいと思ってます。
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青空色の電車
用事があって、横浜線に乗った。
大部分は東神奈川行きで、そこから京浜東北線に乗り換え、東京・横浜方面へ向かうのだが、今日は、いい具合に桜木町行きに乗れた。
桜木町で降りるときに、「…大船方面に行かれる方は、向かいのホーム、青空色の電車にお乗換えください」とのアナウンスがあった。(細かい言い方はちょっと違ったかもしれないが。)
今日は、暑いけれど空は曇天。
しかし、その言葉を聞いて、京浜東北・根岸線の青い色の車体が思い浮かんだと共に、みなとみらいの景色に青空を見たような気がした。
言葉のイメージ力は強い。
その言葉を聞いただけで、一瞬でもなんだか晴れやかな気分になった。
それにしても、「青空色の電車」なんて、今まで言っていたかなあ。
夏休みで、観光客が増えて、乗り換えがわかりやすいように言い方も工夫しているのかもしれない。
梅雨明け、そして
昨日、関東でも梅雨が明けましたね。
今年の梅雨は、台風が来たりしましたが、さほど「梅雨らしくなかったかなー」という気もします。雨が降ると「嵐!」のような様相だったからか…。
それにしても「梅雨明け」にふさわしく、昨日・今日は青空と日差しがまぶしい日でした。
世間は(コドモは)夏休みなんだなー、と思いつつシゴトです。
昨日は、月1回恒例の、障害を持つ方の作業所でのストレッチ講座でした。
今年で早くも3回目の夏を迎えました。
最初は少しの動きでも、疲れが見えたりしていましたが、今では動きも大きくスムーズになり、体力もついてきたようです。
参加されるメンバーや気候によっても内容は変わりますが、できるスペースでなるべく簡単かつ全身を動かせるような動きを楽しみながらやっています。
月1回でも続けると、随分からだが変わってくるのだなーとこちらも実感し、その変化に驚かされます。(もちろん当人達も変わった!と実感してくださるのがうれしいところです。)
こちらも、いつも同じスタンスで教えなくては、というのがあるのですが、たまに体調がいまいちのときもあり、一緒に動いているうちに元気をもらって帰ったりもします。
毎日、そうそう変わらず過ごしているようでも、梅雨が明けたり、どこかへ行ったり、人と出会ったり、まあ、いろんな楽しみが転がっているんだなあ、と思いつつ、今日の暑さの中、ちょっと贅沢にランチを食べに行ったのでした。
夏日・蝉・うなぎ
今朝、今年初めての蝉の鳴き声をきいた。
久しぶりのすっきりとした晴れで、洗濯をしたり布団を干したり。
日差しを浴びてふかふかの布団をとりこむと、「これで湿気った布団で眠らないで済む」とほっとする。
さて、来週は土用の丑の日がやってくるが、一足先に昨日、うなぎを食べた。
暑くて体力が落ちてくるととかく食欲もなくなりがちだが、この時期、ある日無性にうなぎが食べたくなる。
うなぎに含まれるビタミンAは視力改善効果があったり、気管支や胃腸の粘膜を維持したり、皮膚の潤いを守る働きがあるそうだ。
こないだ、風邪で喉を痛めたり、日差しの中を歩いて皮膚が消耗しているせいなのか、とてもおいしくいただいた。
滋養強壮食品なので、いつも食べるものでもないが、夏のイベントとして食べる日を設けるというのは、栄養の面でも理にかなっているようだ。
「土用の丑の日にうなぎを食べる」、というのは平賀源内がうなぎを売るために言い出したらしいが、うまい仕組みになっているなァと思う。
順応か淘汰か…?
今年3回目の風邪である。
からだに関する仕事をしているのに、体調を崩すとはなんともふがいない…!
と思うのだが、風邪をひくって事は「からだの調整が必要」というサインでもあるので、ゴロゴロと寝ながらたまに考え事もしてみたりする。
個人的な要因としては、睡眠や食生活の乱れや冷房の風に当たりすぎたことが重なったんだろうなーと思う。
が、外に出てみると、随分咳き込んでいたり、風邪をひいていそうな人を多く見かける。
「あの人たちの咳・風邪の原因はなんなんだろう?」
からだの免疫力が落ちると病気になるとすると、やはり睡眠・食生活・仕事等ストレスのかかった生活をしているのだろう、と思う。
コレだけで十分罹患率アップになるだろうが、プラス環境要因もかなり大きいと思う。
梅雨なのに日差しの強い日が続いたり、かといったら嵐のような雨。また気温差も激しい。。。となるとからだも順応していくのが大変だ。
豪雨、雷、竜巻などなど。いろんな被害も起きている。
「最近の天気はなんかおかしいよねえ」
で済まされないかもしれない。
海では魚が獲れなくなってきているらしいし、(話は飛ぶが)蚊の種類だって昔より増えて強力なヤツが出回っている気がする。
着々と生態系が変わってきているってことは、ヒトにも影響があるということだ。
こう何度も風邪をひくと、「ああ、こうやって新しい環境に順応できない生物は淘汰されていくんだろうなあ」という気分になる。
環境もヒトも変わっていくのだけど、やはり環境汚染のスピードは緩めないと生きていくのもシンドイだろうなあ、と思うこのごろである。
思考よりはやく
即興でダンスを踊るとき、考えるより先に動きが紡ぎだされていくと、楽しい。
落ちこぼれてばかりいたので、なかなかそういう風にいくことは少なかったが、思わぬ動きに自分がひっぱられて踊る感覚というのはなんとも奇妙で面白いものだった。
ダンスだけでなく、「考えてから動く」とどうしても、一瞬、遅れる。
そういうことって、からだで知っているのに、最近、考えてから動いてばかりだ。
考えうるリスクや可能性を考えてから動く、というのもひとつの手ではあるけど、後から考えがついてくる、というのもアリだ。
中沢新一の『芸術人類学』みすず書房(2006)を読んでいると、こんなことや、とりとめない思いが色々湧いてくる。
これってやっぱり考えてるじゃん、と言われてしまうかもしれないし、そうなのだけど、ひょっとしたら、思う前にからだがそう感じていて、思考として出てきたのかもしれない。
『ゲド戦記』、再び
今月から、パートタイムなのだが、先生の治療院で勉強させていただいている。
卒業・開業して1年、周りのいろんな方にフォローされつつ仕事をしてきたが、そろそろ、もう一度技術的なことの見直しや、もう少し深く学びたい、と思うようになってきた。
何かを探求するには、1人で黙々とすることも大事だが、人と人との間から影響し合って深まるということもある。
この1年、「筋・筋膜療法」に関しては、学校の授業を受けていたとはいえ、どちらかというと「黙々と」模索していたように思う。
民俗芸能の場では、踊りは「習う」だけでなく、まったく関係ないような世間話をしている間にこそ大事なものがある、そういう時間を積み重ねたほうがより理解できる、と常々言われているが、それは他の場面でも同じなのだろう。
そんなことに「ハタ!」と気づき、せっせと通うことにしたのだが、他にもきっかけがあった。
ひとつはBSでやっている「チャングムの誓い」をまた、見たこと。
逆境にもめげず、奮闘するチャングムの姿をみると、「うーん、私もガンバラネバ」という闘志が沸いてくる。食事のことと医術のことがストーリーの柱になっているので、自分にとって共感しやすいということもある。(我ながら影響受けやすいと思うが。)
もうひとつは、『ゲド戦記』(特に1巻)をもう一度読もうかなあ、と思ったこと。
去年の「芸術人類学研究所青山分校!」の講義で中沢新一氏は、「魔法は人類のもっとも古い形態、知的な冒険の形」であると語っていた。
古くからのイニシエーション(成人儀礼など)や医術には多分に自然との関わりや目に見えない力と結びついており、「魔法」の世界を彷彿とさせる。
魔法は、突拍子のないものではなく、もののありようを知れば、それに影響を与えることが出来るという方法なのだ。しかし、だからこそ『ゲド戦記』の中では「均衡を崩してはならない」ということがよく言われている。魔法使いは、必要なときでないと魔法を使わない、大きな魔法ほど世界の均衡を崩してしまうからだ。
一巻の中ごろに船大工の息子が病気になり、ゲドに助けを求める場面がある。
死に向かいつつある子供を前に、ゲドは薬草の長から聞いた医者としての心得を思い出していた。その中の最初で最後の大事な心得は「傷を癒し、病気を治すこと。ただし、黄泉の国に向かわんとするものには手を下さぬこと」だった。
死の世界へ向かうものを引きとめようとすることは、この世の均衡を崩すことになる。しかし、治る見込みのあるものに手を差し伸べることは、均衡を整える範囲内であるということだ。
世界は常に、いい均衡を保っているとも限らない。
魔法使いは、均衡が崩れてきたときに、それを修復する役割を持っている。
修復するためには、そのものの成り立ち(真の名)を知っていなくてはならないし、その使い方も知らなくてはならない。
これは、とても今の仕事ともつながっていることであって、その人のからだを知るには筋肉や骨格や血管・神経・内臓など具体的なものの名や成り立ちを知ることはもちろんだが、からだ全体がどういう働きでつながっているのかもわからなくてはならない。加えて、その人が過ごしてきた時間がからだに現れているので、その辺の時間も頭の隅においておかなくてはならない。その人とその周りの現象の関係を見渡してバランスをとる必要がある。
加えて、芸能や武術や素もぐりやカヌーに惹かれるのは、古くから人はどんなふうにからだをつかい、自然や人と関わってきたかに興味があるからだ。
『ゲド戦記』の世界と、自分のやろうとしていうことがどう結びついていくのか。
もう一度読んで、その糸口をはっきりさせつつ、勉強を続けたいと思う。
多分、そういうところに今学んでいる技術とそこに集う人々との接点があるのだと思う。
(ちなみに「こごみ堂」の営業はしておりますのでご心配なく。)
*引用 『ゲド戦記』(1.影との戦い)ル=グウィン 岩波書店2006
見ること・書くこと・描くこと
「知っている」と思っていても、実際に描いてみようとすると、「どんなのだったっけなあ」と漠然としてしまって、絵にできないことは多い。
漢字も、画数が増えると、結構「こんな感じ…?」で書いてしまうこともある。
テストや改まってなにかを提出しなくてはならないとき以外は、「ニュアンスが伝わればいいかな」で済ましてしまったり。
この5月は仕事が少なめだし、1周年を迎えたということもあり、パンフやHPの文章、また、これから広告する場合にどんな言葉を選んだらいいか、レイアウトはどうしたら目に入りやすいか、見直す作業を続けている。
CMや広告・雑誌の見出しなど、よくみてみると、「なるほどー、よく考えたなあ」と感心する。
もちろん、プロの作業だから、出来がいいのは当たり前なのだけど。
そんなこんなで、自分の仕事について、どう「売っていくか」を具体的に言葉にしたり、ビジュアルにしたりしようとしてみると、「まだまだ強度が足りない」と思う部分もある。
その「強度不足」とは、多分、「しっかり見ていない」ことが原因なのだと思う。
完璧なものを目指すというより、まず現状でなにをしたいか、なにを伝えたいか、シンプルな部分を掬い取ればいいのだけど、「知っている」と思って見過ごしてちゃんと見ていないのかもしれない。
まず、「見る」ということが、意外とできていない。
子供が絵や字をかいているのをみると、「よくもあんなに熱中しているものだ」と感じる。ペンを持ちなれていないということもあるので、かなりヨレヨレした線だったりするけど、かなりこだわってかいている。虫の足の本数なんか厳密だったり、細かい模様までよく見ていたり。
シンプルなところから、身の回りのものの絵をかこうかな、と思ってはいるのだが、なかなか進まず。
小さいものでも、まず「見て」「描く」。
ここ最近の目標です。
進むか止まるか
広告つきブログ、というものもたまに不便なもので、たまに「!??」というものも載っかっていたりする。
こちらでは選べないので、多分記事中の言葉で勝手にひっかかってくるのだけど、どーして「それ」がひっかかってきたのかわからないものもある。
まあ、しょうがないといってしまえばしょうがないのだけど。
ということで、しばらくイロイロと研究していたと同時に、ブログをどうやって維持していこうかな、と考えたりもしました。
あまりにとりとめなく書いているけど、ある程度はやはり、発信し続けることが必要。
だけど、このブログがいいのか、別のブログに引越しするか、はたまたメルマガを再開するか、方法はいくつかあります。
今のところはやっぱり考え中ですが、もうちょっとピントをはっきりさせたいなあ、と思っているこのごろです。
なので、更新もまだまだ遅れがちですが、どうぞおつきあいください。
こびとのくつや
ヒトのからだのバランスを調えていくことは、何かを組み立てたり、修理したりすることによく似てる。
もちろん、生身のからだを相手にするのだから、そんなにキカイテキに済むわけではないのだけど、グラグラしないようにしたり、上手く働くように流れをつくったりすることは、ヒトもモノも似ている部分があるんじゃないかな、と思う。
そんなふうにシゴトをしていると、ついつい「こびとのくつや」の話を思い出す。
おじいさん(だっけ)が眠っている間に、こびとがやってきて、くつを仕上げてくれる話。
ワタシはこびとの役に近いんだけど、こびとさんは実はお客様自身のからだの細胞だったり血管だったり、リンパだったり、エネルギーだったり。
そのこびとさんが動いてくれるように、ワタシは、働きかけるのです。
いいニオイ、ってなんだろう
「香水」という映画が公開されています。
まだ観ていないけど、本を読んだのは10年ちょっと前のこと。
最初に勤めた会社の同期の友達が「面白いよ」とすすめてくれたのがきっかけで、ずいぶん分厚い本なのにドンドン一気に読んでしまいました。
「香水」のハナシなのに、いいニオイだけでなく、体臭とか生活に結びつくあらゆるニオイをかぎ分けて再現していくところに面白さを感じた記憶があります。
さて、「香水」だけでなく、最近、アロマオイルを生活に取り入れることがずいぶん普通のことになってきたように感じます。
私も、少しはそういうもののチカラを借りるのですが、ほんとにポイント使いで、継続的・日常的に活用しているというほどでもなく。
なんでかなー、と仕事の帰り道につらつらと考えてみると、私の「いいニオイ!」の記憶というのは、パンの焼ける匂いだったり、コーヒーやお茶の匂いだったり、おだしのつゆの匂いだったり、大体「食べること」に直結しているものが多かったりします。(パンの匂いは、子供のころに「ぱんやさんになりたい」と思っていたくらいだから結構根強いかもしれない。)
時折、冬の夜にふっと気づく蝋梅の香に「もうすぐ春なんだ」と思ったり、沈丁花や金木犀の香りにはっとしたり。どうも花の香りというのは、私にとって季節の移り変わりを気づかせてくれるもの、という役割のほうが大きいような気がします。香りも好きだし、リラックスしたりリフレッシュするものではあるけれど。
なので、疲れたり、気分が落ち込んでいたりするときは、まずごはん。
台所から、立ち上るニオイをかいでいるとほわほわと落ち着きを取り戻してきます。
あとは、植物。
その次に、アロマ、って感じかな。
ようするに、「食いしんぼ」なんですね。
ごはんの時間
今日は、月2回の新横浜での仕事。
新横浜といえば、新幹線・横浜アリーナ・日産スタジアム・ラーメン博物館が思い浮かぶが、駅前は意外とオフィス街。
昼ともなれば、どこからともなくあちこちのビルの前にお弁当やさんがやってきてテーブルを出す。
いわゆる「オフィス街」という場所に勤めたことがほとんどないので、この光景は、なんだかとってもワクワクする。
決して食べるお店がないわけではないのだけど、お昼の選択の幅が広がるのはうれしいし、お店で食べるより安上がり。ランチとお弁当と両方やっているところもあるので、気に入ったお店の食事をテイクアウトできるのはありがたかったりする。
今日のように、(ちと風が強かったが)天気のいい日には、公園でのんびりお弁当を食べたくなる。
ちなみに、今日のお昼は中華のお弁当(肉とにんにくの芽とたけのこを炒めたもの)杏仁豆腐つき、400円也。(タイムサービスでちょっとお安くなっていた。)
公園のベンチの横では、チビッコ2名が階段の上からボールを何度も投げて遊んでいた。
子供の頃って、そんなことでも楽しかったよなー。
大人になると、楽しみってお金がかかるものが多くなるなあ、としみじみ感じたりして。
川べりで猫とたわむれているおじさんを観察したり、ハトの「何かくれ~」という視線に負けずに弁当を食べきることにひそかに熱くなったり。
まあ、結構のんびり過ごしています。
あけましておめでとうございます
本年もよろしくお願いします。
3が日も終わりましたが、みなさんはどのようなお正月を過ごされたでしょうか?
私は実家に帰っても、なぜか「大掃除」。
「あんたの絵、埃かぶっているのでそろそろ捨てていい?」
と母に言われ、見てみると、既にビニールに入れられ、ベランダに置いてある。
「他の置いてあるものも、今じゃなくていいけど、そろそろ整理してね」
と。
そういわれても、実家に滞在することはあまりないので、正月なのに片付けてきた。
というか、どんなものがあるか下見していたら、本棚の棚板が抜けて、片付けざるをなくなったのだ。
本や映画のパンフのほかに、アルバムや古い手帳、日記、手紙。
恥ずかしいが捨てられない。捨てられないけど、見たくない。
怖いもの見たさで少し除くと、当時のなんともしがたい「ジタバタ」感がよみがえる。
「なにかしたい」「なにかしなくちゃ」と思いつつ、動くのだけどなんか、ぐるぐるまわってしまって上手くいかない。どこに行きたいかが、茫漠としていたから仕方ないのだが、そのころは多分、どうやっても行きたい場所は見えなかっただろうなあ、と思う。おそらく、そのジタバタ、うろうろして、ようやく今の方向性がでてきたのであろうから。
だからといって今の方向でずっと行くとは限らないんだけど。ただ、どちらに行きたいかとか、どこへ向かっているのかは、昔よりは意識しやすいので、不安は少ない。
そろそろ、そういった物も「捨てどき」かな、と思った。
ずっと気になっていた物でもあったので、思い切って捨ててみようと決心すると、やはり肩の荷が軽くなった気がした。
今年のテーマ
大掃除もようやく終わり、玄関に注連飾りをつけることができた。
あと数時間で2006年も終わるわけだが、あわただしくてまだ実感が沸かない。
さて、皆さんは「今年の目標」なるものを立てたりしているのでしょうか?
私は、目標というほどではないが、「今年のテーマ」なるものを設定している。
お正月に「!」と思いつくこともあれば、年明け数ヶ月してから、なんとなく「今年はコレだなあ」というものがでてきたり。
ちなみに2006年は、「誠実であるか」。
アイヌの装飾品は、上手い・下手というよりは、心を込め誠実に作っているかのほうが大事だ、ということをどこかの展覧会のキャプションで読んだ。
深く考えずに、ぱっぱと物事できてしまうけど、できてしまう分だけ、「気持ちを向かわせる」ということができづらくなっているのではないだろうか。
ちゃんと気持ちを向かわせること、誠実になりきれないものを自分で判断すること、そういうことに意識してみようと思って設定したテーマだった。
だからといって、生活しているといろんなことが起こるし、ゆっくり時間をかけてできないことだってある。物に対しても、他人に対しても、自分に対しても、全部きっちりと向き合うことはできなかったが、折につけ「これは誠実であるか?」と問うような一年だった。
こういう視点で自分の行動をみると、やりたいことがはっきりしてくる。
来年のテーマは、前にも書いたように「ためこまない」だが、前の年のテーマをすっかり忘れてしまうというのではなく、積み重なっていくと面白い。
何年か前の「美しいということ」というテーマも、何かの拍子に自分の基準となっていたりする。
こういう些細なテーマでも、なにかに翻弄され、あたふた流されているときに助け舟になったりして、たのもしいものなのだ。
では、よいお年をお迎えください!
書くこと
ブログをやっている割には、そんなにマメに更新していない。
日々、思うことはあるし、本を読んだ感想とか、映画のこととか「ああ、これはイイナア」と思うこともあるのだけど、どうも言葉になってでてくるのが遅いらしい。
時にはそういったことをメモをしているのだが、その言葉が更に人に伝える・伝えようとするまでに時間がかかる。
まあ、普通にしゃべるのでもそんなに、ポンポンと景気よく言葉がでてくるほうじゃないのでそれはそれでもいいかなあ、と自分でも思ってはおりますが。
で、それでもなんで言葉にするかというと、やっぱり伝えたいと思うものがあるからなのではないでしょうか。
伝えようと思うことで、言葉や考えが整理されていったりするのだ。
そうやって書いていったものを後から読み直してみると結構役立ったりもするので重宝している。
自分が大事に思っていることは、そうそう変わらないのだが、かなり普段は忘れてしまっていることが多い。
そんなときに、前に書いた文を読むと、「あ、そうだった」と、原点に返ることができたりするのだ。
色んなことに翻弄されると、肝心なことをつい忘れて、何がやりたかったんだっけ?、と思ったりすることが多い私にとって、書くことは一回立ち止まって状況を把握するのに結構役立っている。
うたをうたう
旅も終わりに近いころ、太極拳の重鎮であるおばあさんにお会いした。
先生(←日本の)が、「是非みんなもお会いしてみるといい」と、連れて行ってくださったのだ。
その方は、80歳を超えているので、足も悪いし、耳も遠いが、話す声は力強い。ひとりづつ名前をいってご挨拶をしたのだが、はっきり聞こえないと「え?もっとはっきりと!何といっているのかわからない!」とご機嫌が少し悪くなる。まあ、そこもあっけらかんとしていていいのですが。
部屋にみんなの分の椅子を用意して、太極拳のことや昔先生をしていたときのことなどたくさんお話してくださった。
話もつきかけると、「あんたは、なにか歌がうたえるか?」
指名された男性は、「歌っていっても…」と戸惑いながら、「北国の春」を歌った。(中国でも有名らしく、ガイドさんのほうが歌詞をよく知っていた…。)
他、先生やガイドさんが次々と歌をうたい、その方もお返しに歌ってくださった。
それぞれの国や地方の歌って、流行歌でも古くからの民謡でも、「交流」にはもってこいのような気がする。歌や音楽ってやっぱりその場をなごませる気がするのだ。
日本でも、よく岩手の方々とお会いする機会が多いのだが、民俗芸能をされているせいか飲み会の席で、その土地に伝わる歌をご披露してくださることがよくある。
それを聞くと単純に歌声が「いいなぁ」、と思うのと同時に、自分にもなにか自分の生まれた土地にまつわる歌がうたえたらいいのに、と思う。
そういうものを持たずに育ったから、いまさら無理なんだけど、童謡でも普通に知られている歌でも、「慣れ親しんだ歌」っていうのは持っていてもいいような気がする。そういう「持ち歌」があると、なにかの機会に便利でもあるし、「ライナスの毛布」のように持っていて安心するような気がするのだ。
今日の空
寒い季節の楽しみは、空がくっきりしていることだ。
春のもやのかかった空や、夏の入道雲も風情があるのだけど、冬の空は潔い感じがする。
冬は寒いし、なるべく外に行きたくないなあと思ったりもするけど、晴れた空を見ると気分も足取りも軽くなるのだ。
家の近くを歩いてふと空を見ると、庭木の緑と青空がくっきりと分かれている。
夕方は夕日が雲を照らしていろんな模様を作る。
夜は夜で、月は冴え、見える星も増えてきた。
そんなことは、季節が移り変わっていく中では当たり前のことだけど、そういうことが自分にとっては新鮮な発見になったりするのだ。
失われたものたち
パソコンがダウンしてしまった。
何度かシステム復旧を試みたがエラーの連続で、結局、再インストールすることになった。
データが失われたのは惜しいけど(仕事のファイルはまめに保存してあったので無事ですが)、何より作業の手間のほうが気が重い。
そんなに頻繁にする作業じゃないので、何から始めるか、何が必要なのかから段取りしなくてはならない。
買った当初の、マニュアルやCD-ROMをひっぱりだして、格闘すること半日、ようやく復旧をした。
まあ、修理に出さなくて済んだのは不幸中の幸いだと思う。
それにしても、仕事以外の文書やメール関係のデータが失われてしまったのは残念だが、意外とさっぱりしたものである。
無くなったら無くなったで、なんとかなるんだな。
ウチの中の雑然とした物たちも、なんとかならないかなぁ。。。
お買い物
無くしたり、汚したりするので、なかなか新しいものを買わないが、財布を買った。
一度見て、イイナアーと思い、2週間後にまた、見に行って買った。
表面の牛革のやわらかい感触が気に入ったのと、内側のカードケースが豊富だったのと、小銭とお札の出し入れがしやすそうだったのが、ポイント。
デザインと用途が自分好みのものがあることって少ない。
それが紳士用の売り場にあったというのがナンだが、気に入ったものが見つかるほうが大事。
久しぶりの、自分にとっては大物の買い物で、ちょっとドキドキしたが、やはりうれしい。
まだ、前の財布のようにしっくり馴染むところまではいってないが、少しずつイイ感じに育っていけたらなあと思う。
仕事も今年から変わったことだし、仕事とともにお金の出入りする財布も新たなパートナーとして共に過ごしていけたら、という感じだ。
中途ハンパでも…
こないだ深夜番組「R30」に糸井重里がゲストに出ていた。
糸井氏のサイト、「ほぼ日」は、文字通り大体毎日更新されている。
「毎日やっていてネタがない日もあるのではないですか?」というような質問に、
「中途ハンパでもなにか投げかければ、だれかが応えてくれて話がどんどん広がっていくんですよー」
と言っていた。(多分こんなニュアンスのことを…。)
うーん、確かに自分の考えだけだと完結してしまうこともありますね。
絵画もそうだけど、なにかをする際に「余白」がないと新しいものは入ってこないと、つい最近もなにかで見かけたっけ。
「狭いスペースに無駄なくきっちり収納」っていうのもいいけど、余白があって何かが出入りする空間っていうのもイイナアと思う。
最近の私は、スペースはあるけどとっ散らかっている状態のような気がする。
それもまた、経過のひとつとして…。
くるくるまわる
今週前半は、仕事が入っていないので、ためていたノートの整理をすることにした。
今日まとめていたのは、からだの動きとラセンについてのもの。
本からのコピーを切り張りしていたら、気付いた。
そういや、昔から短く繰り返される音楽が好きだった。聞くのも、自分でつくる(ハナウタ程度のものですが)のもそんなのばっかりだった。特に、子供の頃は、3拍子のリズムでふらふらと踊ってみたり。
コドモってぐるぐる廻るの、好きですよね。
最近見かけませんが、お父さんが「ヒコーキ!」って言って子供の腕を持ってぐるぐる廻るってこと、やってましたよね。(腕が抜けるからやらないのかな。)
そんな記憶が抜けないからかわかりませんが、武術も踊りもぐるぐるまわるものをやっていたりします。
発生学の三木成夫という人の本を読むと、血管とか内臓とか筋肉とか人のからだにもちゃんとラセンはあるし、植物も雲の動きも宇宙の星雲とかも、渦をまいているんだなー、というのがわかります。
世界のあらゆる部分に渦があるのなら、くるくるまわるものに興味があるってのも仕方のないことだ。
「こごみ堂」のマークも渦をまいてるしね。
チリーダの言葉
今日は30日で終了してしまう、「エドゥアルド・チリーダ」展を見に、鎌倉の神奈川県立近代美術館へ行ってきた。こないだ、ジャコメッティを見た葉山館とは姉妹館である。
チリーダはスペインの彫刻家であるが、日本ではあまり知られておらず、国内での回顧展は今回が初とのこと。私も名前は知らなかったが、海辺に立つ力強い彫刻のポスターに惹かれ、急遽、見に行くことを決めた。
屋外彫刻を多数作った彼は、かつては建築を学び、サッカーの選手でもあったようである。そんな経歴も魅力的だが、その作品は知恵の輪のようでいて、風通しのいい鉄をぐるっと曲げてつくられている。今回は小さな作品が多かったが、遠くから見るとその存在がどっしりと伝わってくる。手を描いたドローイングも肉感があってよかった。
ギャラリートークによると、建築を学んだチリーダは作品の中に射す光も考慮にいれていたらしい。空間に置かれた彫刻の間を人が歩く。壁との距離、光と影。同じ作品でも、様々な捕らえ方ができるのだろう。
「…知覚ははるかに冒険に満ち、革新的なものだ。
…知覚することは現在働きかけるのだが、その足は未来に向けられている。経験はそれに引き換え、逆方向に作用する。…だから、私は知覚と問いかけの生き方がむしろ好きなのだ。私は問いかけの専門家なのだ。いくつかは答えのない問いかけの。」
展覧会の会場に掛けられていたチリーダの言葉の一つである。
言葉の通り、冒険心に満ちた作品たちだった。
*スペインのバスク地方、サンセバスティアン近郊にあるチリーダ・レク美術館も、広々とした野外に彫刻があり、とても素敵な場所のようでした。
*冒頭の蓮の写真は、鎌倉八幡宮の蓮池で撮りました。
雨もまた…
雨が降ると低気圧のせいか、心身ともに「どよ~ん」としてしまうことが多い。
でも!
今日は違いました。
街も緑もいつもより落ち着いて見えました。
自分の心も、雨が沁みこむようにからだに馴染んでいくというか。
うるおう、という言葉がふさわしい雨の日だったように思います。
また、「雨」というと、山陰で出会った光景が思い浮かびます。
低い空から落ちるように降る雨。
あの時も、小高い山や海、古い家並みをうるおすように、雨が静かに降っていました。
雨もまたよし。
こないだ、禊を体験したせいか、そんな気のする1日でした。
気がつけば筋肉痛
少し、ご無沙汰しました。
この間、奈良へ行って御巫の体験修行にいってきました。
朝から夜まで白衣に緋袴・足袋・草履の生活です。
気分がシャンとするのはいいけれど慣れないので、着崩れや立ち居振舞いに意外と気を使います。お腹周りを紐で締める時には、崩れないように、且つ、苦しすぎないようにという加減もなかなかムズカシイものです。
期間中は、朝夕のお参りや、早朝の禊、昼間は行事への参列や講習などがありました。座っていることも多いのですが、結構声を出すことが多い3日間でした。お参りの際には神様へ奏上する詞を唱えるし、食前食後にも感謝を捧げる短い歌を歌います。禊の時にはからだを動かしながら大きな声で定められた歌を歌います。(そのあと、水をかぶり、少しの時間ですが、小さな滝に打たれます。)
夜、眠るときに横になって、「あ、腹筋と、喉の筋肉が痛い…。」
声を出すというのも結構、筋肉を使うものです。
腹筋を鍛える、とか丹田にチカラを…、とよく言われますが、暮らしの中に歌があると、それだけでお腹が鍛えられる。
今の生活で、お祈りの言葉をあげたり、労働歌を歌ったりなどということはないから、やはり手っ取り早いところでカラオケなのかなあ。あとは、なにかお稽古事ですね。
夏至でした
昨日6月21日は夏至、一年で最も日の長い一日でした。
あいにくのどんよりとした空模様で太陽の恵みは受け取りにくい日でしたね。
毎年、夏至というと思い出す本があります。
スーザン・クーパーの「闇の戦い」シリーズ全4冊。
出版社はちょっと忘れてしまいましたが、数年前に出しなおしもされているようです。内容はハリーポッターや指輪物語、ナルニアなどと同じファンタジー。(←これらはちゃんと読んでないですが。)イギリスの南ウェールズ地方を舞台とし、夏至がキーワードになっていたお話だったと思います。
今でこそ本をよく読みますが、子供の頃は文字が並んでいるページを見ただけでクラクラしてました。高校生になって、ようやく本が面白いと思えるようになり、初めてシリーズで読み通せたのがこの作品だったのです。
本の感動と読み終えられた自信と。夏至になるとその時のことを思い出すのです。
腹ヂカラ!
今日は、念願の電動式ドライバーを買いにいった。
ねじの試し打ちができたので、やってみたのだけど、意外と手がブレてしまって上手くいかない。ねじと板とドライバーをしっかり固定させないとダメなんですね。
家に帰ってまた別のねじ締めをした。これまた、微妙なチカラの入れ加減が必要な仕事だった。以前はこんなに悪戦苦闘しなかったのだけどナア。腕力が落ちたか、日々の手仕事が足りないか…。(たぶん、後者のような気がする。)
昨日のカイロの授業でも、立ち位置や手の置き方・腕の角度について細かい指導を受けた。
ねじ回しも骨を動かすのもちゃんと対象を密着させないとイカンなあと改めて実感。思ったよりお腹にチカラが入ってます。へなちょこじゃダメなんです。









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